いろんな子どもがいた、昭和初期の小学校

空も緑もすがすがしい「五月晴れ」の季節ですね

桜の季節が終わると、一気に初夏の陽気ですね。
青空が広がり、新緑が陽の光でキラキラ輝き、吹く風も気持ちよく感じます。
 晴れた日には、思わず「五月晴れ」と言いたくなりますが、旧暦の五月が梅雨にあたることから、本来は梅雨の間の晴れを指したものだそう。
言葉の意味もだんだん変わってきているのですね。

 ところで、小学校へ通いはじめた新入生は、そろそろランドセルが板についてきた頃でしょうか。
今回は大正生まれの方々に聞いた小学校のお話(通っておられたのは昭和初期)です。

男組・女組・男女組って?

 大阪市出身のMさん(男性)は「児童の人数が多くて、男組・女組に分かれていました。僕は男組だったけど、一クラス分の人数には足りない端数の男女を集めた男女組がひと組ありましたよ。クラスは50人で多かったな。今みたいじゃなく、ちゃんと先生のいうことを聞いていました。座れといわれたらちゃんと座るし。

 服装は、男は学童服でした。折り襟で5つボタン。下は黒で半ズボン。中学校へいったら詰め襟で長ズボンになりました。それに、中学のときは学校へ行くときにゲートルを包帯みたいにぐるぐる巻いていました。巻かないといけなかったと思います。体育の時は取るけれど、面倒くさかった! 中学の時は、中佐や大佐など派遣将校が来て、銃を担い教練をやっていました。銃を撃つこともあったし、銃剣を付けて突撃訓練もしました」。

 京都市出身のHさん(女性)は、「男組・女組もありましたが、私は男女組だったので、男の子も一緒に遊びました。男女組は、級長は男の子・副級長は女の子と決まっていました。服装は、女の子はスカートでズボンは履きません。ハイカラな映画に出てくるメイドさんみたいな白いレースの付いたエプロンドレスみたいなのを着ていた記憶があります。体育の時は白いシャツにブルマー。上にゴムが入っていて、ヒダが付いていて。なんぼでも伸びるから、座ろうがどうしようが、とっても自由でラクでした」

 少し年上(大正8年生まれ)で大阪市出身のFさん(女性)は、「学校へ通う服装は、洋服と着物と半々。ハイカラさんは洋服でしたね。天長節とか紀元節とか特別な日には着物を着て、袴をはいて学校へ行きました。校長先生が教育勅語を読んで、紅白のおまんじゅうをもらうのが楽しみでした」と語ってくださいました。

柔軟で多様だった昭和初期の小学校

 この日の茶話会は、たまたま小さい頃に都会で育った方たちでした。皆さん、運動靴をはいて小学校に通われたそうですが、四国の田舎で育った昭和8年生まれの女性が「わらじで小学校に通った。運動靴を履いていたのはお金持ち」と聞いたことがあります。地方とは大きな差があったのですね。

 また、昭和初期の小学校では、同じ教室に着物の子どもと洋服の子どもがいて、当たり前のように男組・女組があったことに驚きました(誰も不公平だと感じていなかったのでしょうか?)。今のように “みんなが同じように”ではなかった時代。子どもたちはもっと自分らしく個性的だったのかなと思ったりしました。

 

この記事を書いたコラムニスト

昭和の思い出つむぎ隊 (ショウワノオモイデツムギタイ)

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